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22年12月餅つき写真
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各種資料

鳥越神社のならわし 拾八ケ町睦会のしきたり 戦後拾五年の歩み
戦後から昭和39年ごろまでの鳥越祭について詳しい説明があります。
昭和50年発行の冊子で、著者は元拾八ケ町睦会総代の藤澤康様です。
資料として貴重な事はもちろん、厳しいながらも皆で助け合って生きていた、下町の人情味あふれる当時の様子がまざまざとよみがえるような内容です。
原本はわら半紙に印刷されたもので、保存状態は良かったのですが、それでも劣化が激しく、保全すべき内容だと考えられましたので今回新たにデータ化致しました。
鳥越神社_睦会_戦後拾五年の歩み.pdf
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昭和16年~20年頃の東三筋町会地図
昭和16年~20年頃の東三筋町会の地図を粕谷芳雄様が作成してくださいました。
現在とはかなり様子が異なり、交番や銭湯があり、都電も走っていました。
当時に想いを馳せれば懐かしい思い出が見つかるかもしれませんね。
昭和16年~20年東三筋町地図.pdf
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昭和50年事業報告並収支決算書
昭和50年度の東三筋町会決算書です。 多種多様な行事や、旅行会の記録等、当時の風俗が偲ばれます。
昭和50年収支決算書.pdf
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昭和52年東三筋町会小史
昭和52年11月26日発行の三筋町会小史です。 東三筋町会は大正6年より続いていますが、震災や戦火で資料が失われた為、伝聞や新聞の記事をもとに構成されています。
昭和52年東三筋町会小史.pdf
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東三筋の歴史

浅草三筋町1、2丁目は昭和16年(1941)3月1日に誕生した町である。

 1丁目は浅草西三筋町、同東三筋町、同南富坂町西1部、同南元西1部、同栄久町南1部を合わせた。2丁目は浅草北三筋町の大部を中心に同栄久町南1部、同森下町西1部を合わせた。浅草北三筋町は同三筋町2丁目の起立によって、ほとんどがその内となったため著しく町域をせばめた。従来の町域からすると、西北隅に位置する事となり、面積は約12分の1に縮小された。わずかに旧来に町名を存続させたのだった。

 三筋町の名は幕府下級官史の屋敷街で、そこに三筋の道があったことにちなむらしい。この区間は嘉永図にはっきり現れている。御府内備考は「三筋町。鳥越明神の北方なり。与力同心の大縄屋敷三区、堅長に並びあるゆへこの名あり。又近き辺りの武家屋敷地も昔より此名を襲ひて書来れるものあり。」と記して、三区画の屋敷地があったからだという。しかし、嘉永図によると、与力、同心の屋敷地は四区にわかれていた。屋敷地が三筋になっていたからというよりも、道が三筋あったのでとみなしたほうが良さそうである。東京府資料が「東ノ町中ノ町西ノ町ト云三ツノ通リアリ 故ニ里俗三筋町ト称セシヲ」と述べているのに従っておきたい。同書によると、浅草東三筋町には幕府書院番組屋敷があり、同西三筋町には大番組屋敷があった。書院番組、大番組については西の項で述べた、ここでは説明を略す。

 明治維新後、江戸期の武家他は整理されて市街地に組み入れられていった。その過程の中で、浅草東三筋町と同西三筋町が起立した。明治5年(1875)8月のことである。東京市史稿所蔵の明治5年9月版東京区分町鑑は

同所 浅草東三筋町 5年8月 府誌、書院番大番与力同心組屋敷其他土地ヲ合セ東西三筋町トス

と記している。

 浅草北三筋町は江戸期書院番組屋敷地及び武家屋敷地であった。明治5年8月新しくこの名を付したのである。里俗三筋町といっていた地の北川隣接地だったので、北三筋町と称したのだった。

 昭和39年1月1日の住居表示制度の実施に基づき、浅草三筋町1、2丁目、同北三筋町は再び変わり、三筋町1丁目が誕生した。

動画

【平成29年 年間行事予定】

 6月10~11日   鳥越祭

 8月13日 ザ・東三筋

 12月10日 餅つき大会

※諸事情により日程が変更になる場合がございます。

【月間行事のお知らせ】

1日     台東区清掃美化デー

〃     都民防火の日

10日    町会定例役員会

〃     台東区清掃美化デー

〃     東京都交通安全日

〃     都市美化パトロール

14日前後 資源回収日

20日    台東区清掃美化デー

〃     台東区交通安全日

 

 ※諸事情により変更する場合が

  ございます。