浅草三筋町1、2丁目は昭和16年(1941)3月1日に誕生した町である。
1丁目は浅草西三筋町、同東三筋町、同南富坂町西1部、同南元西1部、同栄久町南1部を合わせた。2丁目は浅草北三筋町の大部を中心に同栄久町南1部、同森下町西1部を合わせた。浅草北三筋町は同三筋町2丁目の起立によって、ほとんどがその内となったため著しく町域をせばめた。従来の町域からすると、西北隅に位置する事となり、面積は約12分の1に縮小された。わずかに旧来に町名を存続させたのだった。
三筋町の名は幕府下級官史の屋敷街で、そこに三筋の道があったことにちなむらしい。この区間は嘉永図にはっきり現れている。御府内備考は「三筋町。鳥越明神の北方なり。与力同心の大縄屋敷三区、堅長に並びあるゆへこの名あり。又近き辺りの武家屋敷地も昔より此名を襲ひて書来れるものあり。」と記して、三区画の屋敷地があったからだという。しかし、嘉永図によると、与力、同心の屋敷地は四区にわかれていた。屋敷地が三筋になっていたからというよりも、道が三筋あったのでとみなしたほうが良さそうである。東京府資料が「東ノ町中ノ町西ノ町ト云三ツノ通リアリ 故ニ里俗三筋町ト称セシヲ」と述べているのに従っておきたい。同書によると、浅草東三筋町には幕府書院番組屋敷があり、同西三筋町には大番組屋敷があった。書院番組、大番組については西の項で述べた、ここでは説明を略す。
明治維新後、江戸期の武家他は整理されて市街地に組み入れられていった。その過程の中で、浅草東三筋町と同西三筋町が起立した。明治5年(1875)8月のことである。東京市史稿所蔵の明治5年9月版東京区分町鑑は
同所 浅草東三筋町 5年8月 府誌、書院番大番与力同心組屋敷其他土地ヲ合セ東西三筋町トス
と記している。
浅草北三筋町は江戸期書院番組屋敷地及び武家屋敷地であった。明治5年8月新しくこの名を付したのである。里俗三筋町といっていた地の北川隣接地だったので、北三筋町と称したのだった。
昭和39年1月1日の住居表示制度の実施に基づき、浅草三筋町1、2丁目、同北三筋町は再び変わり、三筋町1丁目が誕生した。